なぜだか、感動があまりできなかったのです。
映画『ある画家の数奇な運命』を観ていた事で架空のリヒターの内発的な動機から作品を批評してしまう視点が自由な感受性の妨げになったのではないか?
映画の中でリヒターは東ドイツのアートに対する閉塞感からと⻄ドイツへと自由な表現を求めて逃亡します。彼の原体験から作品の背景にはホロコーストやナチスの虐殺があると描かれています。
私の知れ得ない背景(歴史)から生み出された作品で、そこに共感できなかったのかな、、とも思います。
ちなみに、この作品に対しリヒターは酷評しています「彼(監督)は私の生涯を乱用し、グロテスクに歪めたのです!この件について、これ以上はお話したくありません。」とまでいっています。個人的にも、どこまでフィクションでどこまで事実なのかが、曖昧で明らかにリヒターの作品でありながら架空のドラマが展開していきます。さらに、どう見てもヨーゼフ・ボイスの様な偽の人格が意味を持ち過ぎています。そのボイスらしき人はリヒターにアートの本質を説きますが、それは事実なのか?とか、、映画としては見応えがありましたがリヒターという個人とどこまでクロスオーバーさせて良いのか困惑しました。
ある意味でそれがバイアスになってしまったのかも知れないですが100歩譲って、リヒターの背景を知らなかったとしても、たぶんリヒターの作品は好きではないと思います。
一方で同じく抽象性の高いマーク・ロスコは好きなんです。ずっと観てられる。そこは感覚的なもので、作品の背景や、いわゆる教養めいた理屈から批評する視点ではなく言語化できない深層で感じるところなのです。それで良いのではないか、、、だから、何となくリヒターは好きじゃない。
リヒターは世界的な芸術家であるというステイタスや教養的な色眼鏡だけで観ることが正しい鑑賞かと言うと違うと思います。
むしろ、たまたま居合わせた小学校の低学年位の男子の解説に感動しました。
「この赤は血の色で、こっちの赤は火で、この町には悪い人が住んでいて燃えているの、、、」
あんな抽象的な絵から、こんな妄想(自分軸から生まれる物語)が次々生み出されて、お父さんも興味深く聞き入って彼に質問を投げかけていた事に感動していました。小学生の彼にとってリヒターは世界的芸術家である以前に創造性の源になっている。
それで良いんだな、、と思いました。
1966年生まれ、日本大学芸術学部 演劇学科卒業。
アート×デザイン思考講師/ トヨタ自動車から内閣府まで新規事業開発専門のフリーエージェントを経て公益代理店 一般社団法人i-baを設立。熊本大学「地方創生とSDGs」/京都芸術大学「縄文からAIまでのアート思考」非常勤講師。地域デザイン学会 参与。FreedomSunset@江ノ島主催。DJ/トランペッター。逗子アートフェスティバル2017・2020プロデューサー。
◆アート×デザイン思考入門と実践
アート思考の入門編と実践編をスキルシェアサイト「ストリートアカデミー」でZOOMによるオンライン開催をしています。
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