私は、『ソーシャルデザインの教科書』の書評において、私が考えるアート思考=「創造プロセス」と定義しました。創造プロセスとは、「自分はいつまでにどうしたいのかというビジョンを設定し、それに対する現実を把握し、必要な手段でそれを生み出すというもので、問題の発見や解決ではない」というものです。
この定義において「ビジョン」という言葉が表現されていますが、私は『世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術』の書評の中で、ビジョンの設定と他者との共有について考察しました。
以上によって、自らのアート思考を実現するための手がかりを掴むことができたのですが、その後、以下の疑問が頭をよぎりました。
ビジョンを掲げてそれに向かって邁進するとしても、そのビジョンをどのように実現したらよいのか?
ビジョンとは、前述のとおり、「自分はいつまでにどうしたいのか」と私は解釈しており、「現時点とは異なるどこか」と言えます。「現時点とは異なるどこか」に到達するためには、これまでにない発想やアイデア、技術革新といったもの、すなわち、イノベーションが求められるものと考えています。なぜなら、現時点で有する発想や技術のみでは、進歩・発展することができず、現時点と同じ場所にとどまることしかできないものと考えるからです。
イノベーションを起こすためにはどうしたらよいのか?
ここで、折刃式カッターナイフは板チョコレートがヒントになった――つまり、ちょっとしたひらめきによってもたらされたという事例を思い出すと同時に、「ひらめきを生み出すために、なんらかのヒントとなるものはないものか?」と考えていた折、本書に出会いました。
今まで企業人として論理性のみが求められる、保守的な世界に生きてきた私にとって、本書はまさに目から鱗が落ちるような内容ばかりでした。本書評では、いくつか例を挙げ、イノベーション創出のための考察を深めていきたいと思います。
<目次>
はじめに
第1章 アクシデントを意図的に起こす
第2章 新たな出会いをつくり、偶然を生み出す
第3章 整理整頓しない
第4章 アドリブを取り入れる
第5章 混沌を戦術にする
第6章 目標設定をやめる
第7章 コンピューターに支配されない
第8章 多様性を取り入れる
第9章 生活に乱雑さを取り入れる
謝辞
訳者あとがき
アクシデントを意図的に起こす
数年前、ハーバード大学の研究チームが、学生の“不要な刺激を遮断する能力”を測定した。たとえば、にぎやかなレストランにいるときに周囲の会話をフィルタリングして自分の会話に集中できる学生は、この能力が高いといえる。一部の学生は、このフィルタリング能力が非常に弱かった――彼らの思考は、外界から入ってくるノイズや視覚情報に簡単に妨げられていた。
フィルタリング能力が低いことにはデメリットしかないと思われるかもしれない。だが、これらの学生はほかの学生よりも創造性が高いことがわかっている
『ひらめきを生み出すカオスの法則』(p. 25)
私が社内で仕事をしているとき、となりの島(グループ単位でレイアウトをつくったときの机の固まり)や近くの会議卓での会話が耳に入ってしまうことあります。そんなとき、仕事に集中するために、しばしば耳を塞いでしまうことがあります。
このようなスタイルは、高い生産性を確保できるかもしれませんが、イノベーションという観点では、好ましくないスタイルであるといえます。
隣の島や近くの会議卓の会話内容をフィルタリングせずに、自分の仕事と組み合わせることで、なんらかのイノベーションのヒントにつながるかもしれません。短期的な成果のみを求めるのであれば、ナンセンスな考え方なのかもしれませんが、遠回りであっても、「ひらめきを生み出す」には、この“フィルタリングしない”ワークスタイルは、有益であると言えるでしょう。
新たな出会いをつくり、偶然を生み出す
「ある政策問題に四人の有能な統計学者が取り組んでいたとする。ここにさらに一人を加えるとしたら、有能な統計学者よりも、並の能力の社会学者や経済学者の方が効果的になる」
『ひらめきを生み出すカオスの法則』p. 62
上記引用から思い出される、私が最近体験したことをご紹介します。
ひとつは、絵の対話型鑑賞イベントに参加したときのことです。そこでは、多様なバックグラウンドを持った方々と対話を行い、鑑賞者が絵を見て感じたことや考えたことを発言し合います。このように異なるバックグラウンドの方の意見に接すると、「こういう見方もあるのか」と自分の世界が広がることが多々あります。
もうひとつは、地球の持続可能性など、社会課題に関する対話イベントに参加したときのことです。ここには、大学生などの比較的若い世代も多く参加し、私のような年長者に対して臆することなく、自分たちの意見を真っ向からぶつけ合うという場面に出くわすこともあり、圧倒されてしまうこともしばしばです。もちろん、このような若い方々からも多くの気付きをいただいています。
おそらく同じ会社の人間など、似たような考え方をする人たちの中にいては、上記のような新しい世界を知ることはできないでしょうし、気付きを得ることもできないかもしれません。
しかし日常的には、同じ文化の人といる方がそうでない場合よりも居心地がよく、好きなことだけを共有したり、類似性を慈しんだりしてしまいがちです。
本書には、次のように書かれています。
複雑な問題に対処するときには、どんなに有能な人間でも行きづまることがある。だが、新たな視点や能力を持つ人が加わることで、たとえその人の意見や能力が平凡なものであっても、打開策が見つかりやすくなる
『ひらめきを生み出すカオスの法則』p. 62
イノベーションを創出するために必要なこととして、「新たな出会いをつくる」ことの有用性を改めて感じました。
整理整頓しない
自由や大胆さ、創造性のメタファーのような外観をしているからといって、実際に屋内でそれが実現されるとは限らない。おんぼろで陽気な雰囲気に溢れていたビルディング20には、建物にふさわしい混沌があった
『ひらめきを生み出すカオスの法則』p. 99
ここで、「ビルディング20」について触れておきましょう。本書では以下のように説明しています。
マサチューセッツ工科大学に第二次世界大戦中の1943年に建築された3階建ての建物。正式な建物名はなく、ビルディング20はあくまでも通称。
簡素で細長く不格好で迷路のような建物であったが、設備に簡単に手が加えられることもあり、さまざまな分野の研究者が集い、多くの研究成果や事業が生まれた。「魔法のインキュベーター」とも呼ばれたが、老朽化やアスベストの問題もあり、1998年に惜しまれつつ解体された
『ひらめきを生み出すカオスの法則』p. 94
今年はじめ、ある企業(以下、A社とする)が都内の古びたビルから、再開発された一等地のおしゃれなビルに移転しました。移転の目的のひとつは、採用活動への貢献(将来性のある企業として明るいイメージを持てるオフィスで採用活動への貢献を見込む)だったそうです。
しかし、上述の引用文「自由や大胆さ、創造性のメタファーのような外観……建物にふさわしい混沌があった」からは、たとえ採用活動に成功したとしても、将来性のある企業としてA社はイノベーションを創出できるのか?という疑問が湧いてきます。
A社に限らず、おしゃれなビルに移転する会社は多いと思いますが、企業として社会に貢献できず、将来性につながらないとすれば、オフィス移転は本末転倒といえます。
また本書には次のように書かれています。
創造性は、必ずしも洗練されたオフィスや意匠を凝らしたインテリアからは生まれない。大事なのは、そこで働く人が自分自身で職場環境を設計することである
『ひらめきを生み出すカオスの法則』p. 111
コロナ禍で働き方がだいぶ変わってきました。私の場合、昨年4月からテレワークが主体になりました。またワーケーションという言葉も出てきています。
このような時代の変化に企業も敏感になっていると思います。オフィスへの通勤を前提とした働き方ではなく、企業はこのような多様な選択肢をどんどん取り入れることで、「働く人が自分自身で職場を設計する」ことが可能になっていき、それがイノベーションの創出につながっていくものと考えます。
本書評では、「第1章 アクシデントを意図的に起こす」、「第2章 新たな出会いをつくり、偶然を生み出す」、「第3章 整理整頓しない」の3つの章から、それぞれ一件ずつ事例をご紹介し、イノベーションを創出しビジョンを実現するためのヒントを論じてみました。
本書には上記以外にも、たくさんの事例が紹介されており、多くの読者がひらめきを生み出すことにおいて、自分が腹落ちできる事例が見つかることと思われます。
私にとっても、本書は、自らのアート思考から導出されたビジョンを実現させるためにイノベーションをどのように創出したらよいのか、またそれを実現するためにどのようにひらめきを生み出したらよいのかを考える上で、多くの示唆を得ることができました。
まさに良書と言えると思います。
大学卒業後、外資系コンピューターメーカーに入社。14年勤務したのち、現在の国内大手システムインテグレターに転職。一貫して、ITエンジニアとして大手企業のシステム開発プロジェクトに携わっている。旧態依然たるSIビジネスのみでは将来はないと考え、2020年からアート思考の講座に参加し、新規ビジネスでの活用を模索している。また社会の持続可能性にも関心があり、本業と社会の課題を同時に解決するCSV(共通価値の創造)にも興味を持っている。