【脱アート:③踊る神の島バリ】

私が30年前にフィールドワークを行なったバリの舞踏にアーキタイプのヒントを探してみたいと思います。

観客不在
私がバリを知ったのは1985年のプリアタン歌舞団の国立劇場での公演でした。煌びやかなガムランの響きと魅惑的なダンス。パリの音楽と舞踊の最初の印象は、表現の向かう先でした。ダンサーに共通する無表情な目は明らかに観客を見ていません。いわば対象を失った表現、つまり、観客不在という印象です。彼らはどこに向かって演奏し、舞っているのか?だからといって、排他的で権威的なものでなく、どこか懐かしいような原風景を見るような感情もありました。それがなんとも形容し難いバリ舞踊との出会いでした。

 私はこの時の衝動が忘れられず、バリ舞踏の表現の向こう側ある何か、その秘密を探るため大学(日芸演劇学部)の卒業論文のテーマをバリ舞踏にしました。私が注目したのは、現代バリ舞踏の原型にもなっているサンヒャン・ドゥダリとチャロナランです。現代のバリ舞踏には観賞用のエンターテインメントとしてのバリバリアンと寺院で儀式として奉納されるブバリの2系統がありますが、基本はサンヒャン・ドゥダリとチャロナランから派生しています。そしてこれらの宗教儀礼がバリの社会を維持していたと言われています。

劇場国家
サンヒャン・ドゥダリは疫病の流行や凶作の時に踊られる儀礼で初潮前の女子2人が数週間寺院にこもり、踊りも知らないはずなのにトランス状態で目をつぶったまま2人は神の媒介としてシンクロして踊ります。

チャロナランは1890年当時、コレラが蔓延する中で、疫病退散祈願で行われたといわれています。獣バロンと魔女ランダ、善と悪が戦う物語が夜10時頃から2時頃まで続きますが最終的に決着がつかないまま終わります。ここで特徴的なの善と悪の双方を肯定する思想です。村人たちの興奮は頂点に達し、ナイフを自分に突きつける自傷的行為を伴うトランス状態にまで行きつき、善と悪の双方を飲み込んで最終的には浄化されます。

アメリカの人類学者クリフォード・ギアツはバリの伝統的な王国(ヌガラ)を 「劇場国家」という言葉で捉え、演劇的なこれらの儀礼によってヒエラルキーのない社会を維持する社会構造があるとしました。(参考:『ヌガラ 19世紀バリ劇場国家』)


劇場国家の中心は権力ではなく儀礼で回っていて、神の憑依やトランス状態に陥ることで様々な負の要因を燃焼させ、カタルシス(浄化)を迎えることでバランスを保っている様です。

バリ舞踏「無表情な目」の秘密
わたしはこの社会構造とアニミズムと融合したバリ独自のバリヒンズー、偏在する神々、トランス、に興味を持ちバリ舞踏を文化人類学と大脳生理学の視点から、神が宿る時、人間の脳はどのような状況にあるのか?バリにおける神と人と社会の関係をテーマに卒論執筆の為、バリのウブド村に滞在しフィールドワークをはじめます。その後、通算半年間、ウブド村を訪れ、世界的トップダンサー であったアノムさんの父コンピャンに習うことになります。そこでは、踊りの型を通して自然の見方、神の見方を習います。自然や神の存在を体現すること、それがバリ舞踏の目的であることを知りまました。そこで、はじめてバリダンサーの観客不在を感じさせる「無表情な目」の意味が理解できてきました。誰のためでもなく、むしろ自分のためでもなく、自分の内面を見つつ内面に宿った神や自然と対話する。ある意味これは動的な瞑想でもあり、その状態で初めて型を超えて自然や神と一体化する。ということなのだと感じました。

宗教的背景
国民の大半がイスラーム教であるインドネシアにおいて、バリだけはヒンズー教に精霊信仰など土着のアニミズムが融合した「バリ・ヒンズー」と呼ばれる独特な宗教体系が形成されています。信仰心が熱く、毎朝のお米を神へのお供えとして家の敷地の至る所に供えます。ある日、オートバイで買い物に行こうとするとガソリンがなくて動きません。この時「ジワ(魂)が枯れた」と表現していたのを思い出します。彼らは自然の隅々まで神が宿ると考えています。これは日本の神道における八百万の神にも似ています。キリスト教の1神教に対し、日本古来の文化にも通じる自然界の万物に神が宿るとするのがバリ・ヒンズーです。バリのダンスも同様に神に捧げるための踊りです。つまり、誰かに見せて対価を得たり、鑑賞してもらう目的で踊られたのではありません。

芸術の誕生
1920年以降、バリ観光地として西洋から多くの観光客が訪れるようになります。この頃、伝統的なバリ文化に西洋文化を取り入れ、新たなバリ文化を創ったのがドイツ人画家のウォルター・シュピース( Walter Spies,1895-1942)です。彼は絵画だけでなく音楽や舞踏にも大きな影響を与えました。その一つがバリ舞踏のなかでも有名な「ケチャ」です。シュピースは、疫病の流行や凶作の時に踊られる儀礼要素の強いサンヒャン・ドゥダリの儀式で男たちが行う「チャ、チャ、チャ」という掛け声と戯曲ラーマヤナの物語を組み合わせ物語仕立ての演劇的要素として再構築します。

現在ではバリのウブドゥ村はアートの村として有名ですが、それまバリにアートという概念はなく、この概念自体西洋から持ち込まれたものでした。私たちが芸術的と意識するこれらの舞踏や絵画、彫刻などの行為は日常と非日常つまり「ハレとケ」を結ぶ儀礼であり、日常の延長線上にある非日常をつなぐものであり、その全ては自然と神に向けられたものです。ここに観客や消費者という概念はそもそも存在していなかったのです。

3回に渡り、過去と現在から脱アートについて考えてきました。アート以前のアーキタイプ(元型表現)では人の営みの中にアートが溶け込んでおり、アートと非アートの溝はなかったのです。

アートと、人の営みにおけるアーキタイプ(元型表現)は資本主義の崩壊やヒエラルキーの崩壊から、もっと近くなり、本質的な人間の表現に戻っていくのではないかと考えています。

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