本書の原題は”Metaphors We Live By”です。みなさんは「メタファー」(暗喩)と聞いて何を思い浮かべますか。ある物事を説明するために、まったく異なる事象を引き合いに出して「見立てる」鮮やかな言語上の技巧、でしょうか。
ところが本書の第一章から、いきなりその概念は崩されます。メタファーは特別な状況で用いる技巧ではなく、そもそも我々の日常生活のすべてと言ってもいいくらいに世界を支えている基本的なものの考え方だということがわかります。我々の思考過程は、メタファーによって成り立ち、用いたメタファーは、我々の次の行動までも決定していたのです。
本書では、膨大なメタファー例を挙げ、それが我々の生活、文化、思考過程、行動にどのように影響を及ぼしているのかを説いていきます。メタファーの基本的な機能については前半でおおよそ語られ、後半では著者らとは異なる考え方との対比の中で、著者らの考える経験主義が、いかに人間の「理解」という行為を適切に説明できているかを説明しています。
そう、本書は人間の「理解」という行為についての書だったのです。
目次
- 生活の中のメタファー
- メタファーと概念の体系性
- メタファーの含意:ある面を際立たせ、ある面を隠す
- 方向づけのメタファー
- メタファーと文化の一貫性
- 存在のメタファー
- 擬人化とメタファー
- 換喩とメタファー
- メタファー相互の間の一貫性
- さらなる例
- メタファーと概念構造
- メタファーと概念体系の基盤
- 構造のメタファーの基盤
- 因果関係の概念の基盤
- 経験に一貫した構造を与える
- メタファーによる一貫性
- メタファー間の複雑な一貫性
- 他の概念構造理論が導く結論
- メタファーによる定義と理解
- メタファーと形態の意味
- メタファーが創る新しい意味
- メタファーが創る新たな類似性
- メタファー、真実、行動
- メタファーと真実
- 客観主義神話と主観主義神話
- 西洋哲学と言語学における客観主義神話
- メタファーと客観主義神話の限界
- 主観主義神話の不適切さ
- 経験主義者の見解:古い神話に新しい意味を付与
- メタファーと理解
想像を超えるメタファーの影響
この本で深く心に刺さったのは、次の点でした:
- すべての理解はメタファーから ― なんてことだ、行動までメタファーのせい ―
- メタファーは文化の中から現れ出でる ― 英語の表現は言語の問題ではなかった ―
- メタファーは創造的 ― 見えていなかった新しい意味まで見つけてしまう ―
これらの説明が、次々と拡張されていく様は、まるで数学の証明を見ているようです。新しい概念は、疑いようのない基本的な概念(自らの身体との関係で誰もが理解する上下、内外、前後という空間の方向性概念)をベースに構造が与えられることで理解され、構築されていくのです。
たとえば、「楽しさは上」という関連付けからは、「気分は上々だ」、「気持ちが沈んでいる」といった表現が新たに生まれます。
すべての理解はメタファーから
メタファーは”A is B”の形で語られます。たとえば本書の最初の例「議論とは戦争である」は、「戦争」という概念メタファーの光を当てて「議論」という概念を照らす(理解しようとする)ものです。
戦争メタファーを得た人は、議論について日常様々なメタファー表現(例:「君の主張は守りようがない」、「彼は私の議論の弱点をことごとく攻撃した」)を使います。しかしメタファーの影響で、その人は議論の戦闘的側面を理解する代わりに協調的側面が見えなくなっています(このメタファーの示すさまざまな側面のことを「相」と呼びます)。そして、意識することもなく戦争の仕方、戦略・戦術を議論の進め方に持ち込むのです。
メタファーは、ある経験に基づいて新しい物事の理解を促進できますが、人の次の行動までも示唆してしまうのですね。
本書の冒頭でメタファーが一気に自分事になり、読み進めることになりました。
メタファーは文化
新しい物事を理解するためにメタファーが必要ならば、その根源が気になりませんか?
本書では根源的概念の大部分は、空間における方向づけにあると言います。「その概念を構成する代わりのメタファーを想像しにくいケースがある」のですが、それが自分の身体を起点に考える空間的な方向づけの概念である、というわけです。
たとえば「上」という概念は、経験的に「上」なのであって、何かほかの概念の組み合わせでは説明しづらいですね。
自らの身体性を基にした上下、内外、前後、浅い深い、近い遠いなどの根源的な概念と、良い悪いなどの概念とが結びついて、さまざまな概念が構成され、言語にそれが現れる様が紹介されています。
概念はこのように深いところで互いに連関しているため、まったく異なる事象が同じ言葉で表現されていたとしても、実はそこには一貫性があることが理解できます。
ただ、この一貫性が実は文化に基づくものであるがゆえに、文化の違いがメタファーの違いを生み、物事の異なる理解の仕方を生んでしまうことがわかります。メタファーが違うと、行動や理解が異なってしまいます。
本書を例に、メタファーを引き合いに出しているロベルト・ベルガンティの『突破するデザイン』(日経BP)には、新しい車の意味を検討するアルファロメオチームの苦悩が紹介されていました。彼らは既存のハイエンドカーがミハイル・バリシニコフであるのに対し、自分達の車は、ルドルフ・ヌレエフであるべきとしました。
これにはまずバリシニコフとヌレエフがバレエ界のスターであること、ヌレエフの動きが「完璧で技術的にも正確」であったのに対し、バリシニコフのそれは「大胆で型破りな姿」だという違いがあることを知っていることが大前提になりました。理解のために特定の文化、経験の共有を要求するため、これは伝達のためのメタファーとしてはふさわしくありませんでした。
考えねばならないことはどんどん広がります。
※ちなみにアルファロメオチームは、この後対外コミュニケーションのためにより強力なメタファーを探すことになりました。メタファーは理解を助けるものでなければなりません。
メタファーは創造的
便利でやっかいなメタファーですが、素晴らしい点が指摘されています。創造性です。
既述の通り、メタファーは物事に構造を与え、理解を促進します。ところが図1に見えるように、実は当初考えていなかった部分にも光が当たります。つまりメタファーが示す性質(相)を改めて対象に当てはめてみることで、まったく新しい構造が作られることがあるのです。
本書では、「化学のメタファー」として事例が紹介されています。バークレーにいた留学生が、”the solution of my problem”という表現をメタファーだと思っていたことから、逆に著者らが”problem”の定義に新たな面を見出してしまったという逸話です。
著者らを含め誰もが”solution”を「解」としてしか捉えていなかったところ、この留学生は、「問題の溶解」というメタファー表現だと考えていました。「触媒によって次々とある問題は(一時的に)溶解し、ある問題は沈殿しているのだ」と考えたのです。
ここから著者らは、問題が何度も繰り返すことが自然であること、一度解決してしまえば、永久にそのままであるとして扱うことが的外れであることに気づき、それを人生の問題に当てはめた際のとるべき態度にも想いを馳せるのでした。
メタファーは単なる「たとえ」ではありませんでした。
本書ではこの後、客観主義(この世には、絶対体無条件の真実があるとする「理性」を重んじる立場)、主観主義(真実は外部からの制約を受けない自由な「想像力」によってのみ獲得することができる、とする立場)との対比を経て、物事の見方の第三の方法である経験主義を唱え、論述を繰り広げていきます。
ここで経験主義の「想像力を働かせた理性活動」としてメタファーが取り上げられています。著者らが本書でもっとも伝えたかったのはこの経験主義的な世界の理解の仕方だったのです。
アートと縁の深いメタファー
さて、人が物事を理解するためにメタファー(見立て)が重要な役割を持つのですが、この見立てを内的に用いているのが実は表現者(アーティスト)なのではないか、と私は思います。
そして、既述の通り、メタファーは、人の経験・文化に基づいているために、作品の見方が人それぞれであるということにも納得がいくのではないでしょうか。
大変重要なのは、そのそれぞれの捉え方が作品の異なる相を表しているため、いずれもが正しく、作品の一部を表しているという点です。もしもアーティストの意図しない捉え方が出てきたとしたら、それはまさに作品が生み出した創造性であると言えるでしょう。これこそがアートの醍醐味ではないでしょうか。
なぜ自分は物事を、そのように捉えているのか、改めて気になってしまう本でした。
Creative Research™ Consultant
横河電機株式会社
ファームウエアエンジニアから始まり、SEや研究開発企画などを経て、徐々に商品開発フローの上位へ上位へと仕事を移し、現在はインハウスデザイン部門に勤務。
デプスインタビューなどでユーザを徹底的に知るための方法論を展開すると同時に、最も重要だと信じる”開発者の意志を汲みだす対話”にも重点を置くCreative Research™を提唱している。
あらゆる開発プロジェクトに横断的に関わるデザイン部門に身を置くことで、効果的にコミュニケーションを図り、哲学シンキング、デザイン思考、システム思考、LEGO® SERIOUS PLAY®などを駆使して、ユーザの心に共感し、開発者の想いに迫る。
“Act without authority”が信条。