はじめに
あらかじめことわっておくが、筆者の私が教養があるという訳ではない。
むしろ、これまでに教養が必要な場面が数多くあり、自分の勉強不足を感じることが多かった。
何かを創り上げることと、教養は無関係のように言う人が少なからず存在するし、意外性を求める創造力には、教養が邪魔をするという人もいる。
しかし、奇抜なアイデアほど人目は引くものの、その根底にあるストーリーに確固たるものがないと、そこはかとない深みを感じることができない場合が多い。
また、アート作品においても、曖昧で不鮮明で感覚的なものを、しっかり言葉になるまで詰め切れていないコンセプトの作品は、鑑賞するこちらに訴えかけてくるものが弱いように思う。
そこを補強するのは教養のように思える。
造形行為を行う前の、コンセプト作りにおいて、ぼんやりしている意識に言葉を与え、顕在化させていくには、教養は欠かせないと思うのである。
リベラルアーツ
アート思考と同様に、教養もその定義は定かではないらしい。
教養と常識、知識と混同しているとの指摘もある。
教養と教育は、明治期には「education」を指す言葉であったようで、同義の言葉であったようだ。
しかし、その後「education」の訳語に「教育」が浸透していくにつれ、「教養」は別のことを指す言葉になっていったということだ。
その教養はリベラルアーツであり、ギリシアの文化が基となっている。
リベラルとは英語の「liberal」で、自由や自由主義という意味である。
ここでいう自由とは、職業や労働から自由になるという意味で使われていて、つまり奴隷ではなく、仕事をしなくてもよい身分ということだ。
つまりリベラルアーツとは、知的・精神的に真理・知を探求し、自己形成・自己完成を目的とする行為のことをいう
そして、17世紀の欧州の実験科学と啓蒙主義の時代には、文法・論理・修辞・算術・幾何・天文・音楽の7つが学習する内容であり、これを「自由7科」といった。
リベラルアーツの歴史的な背景は理解できたが、このリベラルアーツの目的と習熟する学習内容は、日本語の言う「教養」とは、感覚的には異なるように思える。
教養とは
個人的に教養の持つ意味を明確に出来ている訳ではないが、前述したリベラルアーツは、曖昧だが目的が設定されており、その目的を達成するためのツールとして、自由7科の学習が必要だと解釈できる。
しかし、個人的には教養とは、目的を持たないものであり、ツールとして習熟するものではないと思っている。
日常を生活する上では必要ないかもしれないが、人類が作り上げてきた、文明(Civilization)・文化(Culture)を理解する、壮大な「知・情」の体系を自分の中に取り入れる行為のように思えるのだ。
人類が文明・文化を作り出したのは、約10,000年前であり、この時間の中で人類が形作ってきた知の体系がある。
現代の生活は、この10,000年の知の体系の上に構築されているといい。
この知をすべてを理解し、取り込むことは出来ないからこそ、各国が設定した教育機関が、その国の事情に合わせ、10,000年の知の体系からピックアップしたものを初等教育から学習していく。
しかし、教養をつけるには、これだけは不足だ。
知だけではなく、情操教育も教養には欠かせないものである。
情操教育という言葉から連想するのは、ピアノレッスンやクラッシック音楽の鑑賞などだが、単に技術をマスターするのではなく、心の動かし方の訓練をすると言った方がいいだろう。
感情が揺さぶられ、心を動かす方法も文化により異なる。
文化により異なるということは、人類は心の動かし方も体系化していることになる。
10,000年の知の体系の中には、感情が動いた時の様子を表現したものが無数に存在し、情も体系化されているのである。
そして、情の移り変わりを表現している文化がしっかりと存在している。
詩や歌などは、情の遷移を表現しているし、日本で言えば、万葉集は、日本人の心の動き方を表している。
これらを学習したからと言って、現代の複雑な環境の中で、生活が上手くできるようになると限らない。
洗濯が出来る訳でもなく、部屋をきれいにできる訳でもない。
しかし、この生活には無駄な人類の知と情の体系を自分の中に取り入れることが出来ないと、何かを創り出すことが出来ないのである。
創作と教養
まだ上手く言葉にすることは出来ていないが、何かを創り出す時の思考の中に、時間軸を意識しているものとそうでないものには、かなりの差があるように思える。
鑑賞者やユーザーとして、多くの人が生み出したものに触れる際に、過去からの時間の流れを感じられるものの方が、ぜったいてきな深みを感じることができる。
その深みが感動となり、鑑賞者・ユーザーの心を揺さぶるのだ。
この深みを出すのに必要なのが教養なのである。
アート思考も、自分の心の動きを認知するだけでは、創作することは不可能である。
この、人類が作り上げてきた知と情の体系を自分の中に取り入れることにより、創作へとつながる。
※この記事は代表幹事の浅井由剛が執筆したNOTEの記事を転載したものです。
NOTEの記事はこちら
静岡県沼津市生まれ
武蔵美術大学 空間演出デザイン卒業
大学卒業後、3年間、世界各地で働きながらバックパッカー生活を送る。
放浪中に、多様な価値観に触れ、本格的にデザインの世界に入るきっかけとなる。
2008年株式会社カラーコード設立。
デザイン制作をするかたわら、ふつうの人のためのデザイン講座、企業研修の講師を務める。
現在は、京都芸術大学准教授として教鞭ととりつつ、アート思考を活かしたデザインコンサルティングをおこなう。