【脱アート:①アートとアーキタイプ】

アートは無くなってしまえばいい。


アート思考を日々考えていくうちに、今注目されているビジネスとアートの関係を紐解く為には、その前に人や社会とアートの関係について踏まえておく必要があると考えました。

唐突ですが、私は心の底でアートという概念がなくなってしまえば良いと思っています。表現することをやめるという意味ではありません。一般的に言われるアートという概念自体に疑問を感じているという意味です。それは、人がいつしかアートと非アートを分けてしまったことに違和感を覚えたからです。

かつて世界にアートという概念は存在せず、人の営みの中に創造性や表現は内在され日常にあったはずです。人の表現は、宗教や権力構造に取り込まれ、経済の一部になっていく段階で本質的な人の営みであるアートと、資本主義経済の一部、または権力の象徴としてのアートに二分してしまったのではないか?前者のアートと資本主義に取り込まれたアートは本質的に違うのではないか?
資本主義に陰りが見え始め、ソーシャルメディアの発達を背景にヒエラルキーや所有することの優位性、大量生産大量消費の価値が崩壊していく中で、資本主義に取り込まれる前の本質的なアートに回帰していくのではないか?その時、アートは社会に溶け込み、既存のアートに対する概念は消失するのではないか?それが本来あるべきアート以前のアーキタイプ(元型)ではないかと思うのです。

アーキタイプとは心理学者ユングが提唱した分析心理学の概念で集合的無意識の中で仮定される、無意識における力動の作用点であり、意識と自我に対し心的エネルギー介して作用する。(Wikipediaより引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B

ユングの定義したアーキタイプとは多少異なる部分もあるかもしれませんが、作家に刻み込まれた潜在的な心的要素が無意識の領域で結びつき生まれる妄想や夢の具現化をアート以前の領域として、その状況から作品を生み出す創作行為や、既存の社会的枠組みに囚われない内発的な表現行動を仮にアーキタイプと呼ぶことにします。

それがアートの原点回帰になるのではないか、本質的なアートはそこにあるのではないか?と思うのです。これからしばらくアートとアーキタイプについて思考を巡らせてみようと思います。

縄文式土器はアートではなくアーキタイプ

まずは、過去に遡ってみましょう。

「日本に一番素晴らしい芸術があるのは縄文です。このような反美学的な、無意味な、しかも見る者の心情を根底からすくいあげひっくりかえす、とてつもない美学が、世界の美術史を通じて見られるでしょうか」

日本の伝統 (知恵の森文庫)  岡本太郎 より引用

岡本太郎が著書「日本の伝統」の中で圧倒的なアート作品として発見する以前は、野蛮な未開人の奇妙な造形をした出土品であった縄文式土器ですが、果たして縄文人はこの素晴らしい造形の土器をアート作品として作っていたでしょうか?さらに土器の作者は自分にアーティストとしての自覚があったでしょうか?そんな訳はありませんよね。

縄文時代の火焔型土器のアバンギャルドな造形は蛇を表現したものであるとか、炎であるとか諸説あります。彼らの想像した造形は合理性や利便性を超えて、直感的に心の目で見た自然そのものだったのではないでしょうか?なんのバイアスもない目で世界をみるとあの造形にしか見えなかっただけではないか。それは、自然や生命に対する畏敬というアーキタイプの具現化ではないかと思えるのです。

実際の火焔型土器を見て思うのは、実用性が全く感じられない点です。単純に使いづらそうとしか思えません。一方で弥生式土器の多くは洗練され合理的にデザインされ現代の日常に使用するものと大差がなくなって来ます。

縄文時代と弥生時代以降の大きな違いは農耕

縄文時代は1万年続いた狩猟採取社会であったと言われています。狩猟採取の時代にはヒエラルキーがなく、獲れた獲物や拾い集めた木の実などをシェアして生活していました。

弥生時代に入ると大陸から農耕が伝わり、日本は一気に農耕社会となります。これが、資本主義の始まりといってもいいでしょう。土地を収める者(所有する者)と土地を耕す者。つまり、雇用者(支配者)と労働者が生まれるのもこの時です。そして、中央集権的な社会システムに変わり合理性と生産性が重視される社会になるとアートは権力の象徴となっていきます。

ここで、民間のアーキタイプとしてのアートと権力の象徴としてのアートの分化が生きたのではないかと推測されます。

縄文時代に生まれた土器や土偶がアート以前のアーキタイプであるのに対し、弥生人は権力下において合理的で利便性をもったデザインや権力を象徴するモノをつくりはじめた。ここで初めて、誰のために作るのか?なんのために作るのか?という客観的な目的性の傾向が強くなる事で、アーキタイプと今で言うアートやデザインの原型に分化するのではないかと考察します。

私がアーキタイプを意識するに至った理由のひとつに、現代社会が縄文と近い社会構造になっている、という背景からです。

農耕以前の縄文には感謝による循環経済やシェアリングエコノミーが存在し争いのない平和な社会の構造は、もしかすると自立分散型のヒエラルキーのないティール組織に近い多様性をもったコミュニティー社会であったのではないか

上記のイメージとポスト資本主義の社会構造やソーシャルキャピタルのイメージが私の中で重なっているのです。

縄文時代と現代の共通項について、ここで詳しく述べていますので参照してください。

イスラエルの歴史学者で、世界的ベストセラー「ホモ・サピエンス」「ホモ・デウス」の著者・ユバール・ノア・ハラリ氏は「21世紀の人間は狩猟民族に学ぶべきだ」と言っています。縄文の社会構造はポスト資本主義や、ソーシャルキャピタルへのヒントではないか、、これからの時代の手本が縄文にあるとしたらアートもアーキタイプに還元されるのではないか、そんな背景から社会とアートの関係についてしばらく掲載しようと思います。

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